人の返信が遅いと、少し気になる。
でも、自分のトーク画面にも返していないメッセージがある。

「あとで落ち着いて返そうと思っていた」
「読んだときは、ちょうど手が離せなかった」

自分のことなら、そのあたりの事情を説明できる。
相手の画面に映っているのは、返事が来ていないという事実だけかもしれない。

人にされると嫌なのに、自分もやっている。
なぜ、こんな食い違いが起こるんだろう。

ひとつの理由で全部は説明できない。ただ、同じ行動でも、している側と受け取る側では見えている事情が違うことがある。嫌だと思う程度や、その日にできることも同じとは限らない。

まずは、その違いを少し眺めてみたい。

自分の遅刻には、駅までの道のりがついている

たとえば、待ち合わせに五分遅れた日。

家を出る直前に電話が来た。信号がなかなか変わらなかった。改札を出る方向を間違えた。
遅れた側には、そこに着くまでの出来事がある。

待っている側には、五分間がある。
寒かったかもしれないし、次の予定が気になっていたかもしれない。

どちらの事情も本当なら、片方だけではその場面を説明しきれない。

「仕方なかった」と「待つのは嫌だった」は、同じ五分の中で両方起こりうる。
自分が遅れたときには前者が近く、待たされたときには後者が近い。

同じ出来事なのに、立っている場所で、目に入る部分が変わる。

「嫌だ」と「しない」の間には、少し距離がある

話の途中で口を挟まれるのは嫌だ。
そう思っていても、会話中に「それ、わかる!」と先に声が出てしまうことはありそうだ。

話を奪うつもりはなく、一緒に盛り上がりたかった。
でも、相手はまだ続きを話していた。

何が嫌かを知っていることと、その場で自分の行動に気づくことは、別の作業なのかもしれない。

返事を待つのが嫌でも、疲れて文章を考えられない夜はある。
予定を急に変えられると困っても、自分の都合が変わる日はある。

もちろん、事情があれば何をしてもいいという話ではない。
理由を言えることと、相手が困らなかったことは別だ。

「そんなつもりじゃなかった」のあとに、相手にはどう届いたかも残っている。

同じことをしていても、同じくらい嫌とは限らない

自分は五分の遅刻なら気にならない。
だから、相手もそれくらい平気だと思っていた。

一方で、返信が一晩ないと気になる。
相手は、急ぎでなければ翌日でもいいと思っていた。

こんな二人なら、それぞれが自分の基準では普通にしているつもりでも、相手を困らせることがある。

「自分が平気だから、相手も平気だろう」
「自分が嫌だから、相手も知っているだろう」

どちらも、まだ相手に聞いていない部分がある。

人にされたら嫌なことをしない、という言葉だけでは拾いきれない違いもある。
自分の基準をひとまず持ちつつ、相手の基準は別に知る必要がありそうだ。

自分もやっていたら、嫌だと言えなくなる?

ここで少し困るのが、「自分もやっているじゃん」と気づいたあとのことだ。

自分だって返信を忘れる。
それなら、相手の返信がなくて寂しいと思うのは勝手なんだろうか。

自分もしたことがある、という事実だけで、嫌だった気持ちまでなくす必要はないと思う。

そのかわり、自分の事情を話すなら、相手にも事情を聞く余地がある。
相手にお願いをするなら、自分が同じことをしたときにも、そのお願いを思い出せるといい。

たとえば、返信の速さを揃える話よりも、
「予定を決める連絡だけは、その日のうちに返してほしい」

という話のほうが、二人が困っていた点に近いかもしれない。

嫌だったことを具体的にすると、自分を責める話にも、相手を悪者にする話にもせずに話せる余地ができる。

「自分はどうだっけ」を、別の問いにしてみる

「人にされたら気になる?」
「自分もしたことがある?」

この二つは似ているけれど、答えが揃うとは限らない。

「自分もやってた?」では、二つの問いに別々に答えて、日常の10テーマで重なりを見つけられるようになっている。20問、約2分の自己ツッコミゲームだ。

性格の良し悪しや、相手を許すべきかを決めるためのものではない。
「あ、これは自分もあったな」と思う場面を、ひとつ見つけるくらいでもいい。

自分の行動には、つい説明を添えたくなる。
その説明を、相手はまだ聞いていないかもしれない。

そして相手の行動にも、こちらがまだ聞いていない話があるかもしれない。